3・11から続く道終わらない事故と被害の果てしなさを噛みしめて

    福島の今とエネルギーの未来

    ー大賀あや子(大熊町~会津若松市~新潟県阿賀野市)

     2011 年、私は福島県大熊町で小農を営み、 ときどき脱原発ネットワーク等の活動に参加し「ハイロアクション~福島原発 40 年とわたしたちの未来」という新たな取り組みに希望を持っていました。福島原発は次々 40 年超えになり、老朽化やデータ隠しやトラブル続発への不安感も増す中、廃炉時代の地域社会を考え始 めようという呼びかけでした。 

     3 月 11 日の大震災本震の時には、長い揺れに耐えながら、女川原発・福島原発・六ケ所再 処理工場等が無事であってほしいと祈り続けていました。ライフラインが途絶し、原発事故の情報が入ったのは原子力災害対策特措法10 条通報/特定事象通報より5時間も後で、私はその間、念のための避難を周りの人たちに呼び かけたくても実行できませんでした。そして過酷事故が現実のものとなり、家、仕事、馴染んだ生活、人の繋がりの多くを失いました。 

     関東に一時避難中は、原発事故の拡大を恐れ、散り散りになった地域の人びとを案じながら、ハイロアクション等の仲間達と連絡を取り合い、避難区域の拡大や被ばく防護、避難支援 の施策を求める活動に走り出しました。 避難先は大熊町役場と住民多数が避難した会津若松市内の 2 次避難所(後に借上げ住宅)に移し、大熊町の人たちとは再会、交流ができました。

     内面的には、1 年目は起きている間じゅう3.11 前の双葉郡と現在を心が行き来し、2 年目ごろからは避難指示区域内のニュースや番組を見ると 3.11 以前と混ざって夢に現れ、目覚めてからずっと反すうしてしまう感じでした。3年目の秋には心身症が現れて辛くなり、土壌汚染が数 Bq/kg(Cs 合算)程度で、夫が転勤してくるまで二重生活しやすそうな新潟平野に再避難しました。毎月11日には、原発避難で弔いに伺えなかった津波被災の友人や、これまでに故郷へ帰れないまま亡くなった友人知人たちを偲び、原発関 連死や事故現場作業等で亡くなったすべての方々、そして被害・被ばくを受けた、受けているすべての方々を想い、終わらない事故と被害の果てしなさを噛みしめています。 


    2005 年秋、大熊のイノハナ茸。二度と得られぬ 山の恵み

     2012 年には、食品の放射性物質の基準値引き下げや、原発事故子ども・被災者支援法の成立があり、人びとの声が届いていくと期待を持ちました。 

     しかしその後、福島県内外で年々進められた避難指示解除、仮設と借上げ住宅の打ち切り、 曖昧なままで数えられていない人もたくさんいる避難者数集計、縮小論の出ている甲状腺検査やモニタリングポスト配置、除染土壌の「再利用」や「埋立て処分」と難問が続いています。避難指示区域の線引きによる賠償と支援事業の 格差も辛いものです。被害を比べることはできない、福島県民200万通り、岩手宮城や関東 の人たちふくめて数千万通りの被害だ、あきらめず発言しようと考え、新潟県内の避難者支援 や「避難の権利」を求める全国避難者の会に参画もしてきました。 

     精神医学専門家の「原発避難者の精神的苦痛 は過去のどの災害よりも高い」「未来が見えなくて『仮の人生』が続くとPTSDが多発する」「先の見えない感覚の持続⇒フラッシュフォワー ド」といった指摘があり、支援者としても私自身についても思い当たることばかりです。 

     被災地に暮らす人も避難先に暮らす人も、一 人も取り残さず、住居や健康の不安なく暮らせる施策を、この人災を発生させた国の責任で行うことを、百年~数百年と続く原発事故の影響の中で決して諦めてはならないと思っています。 

     ところで新潟では、福島原発事故の原因者である東京電力が、柏崎刈羽原発について2015年からテレビでCMを再開し、2020 年から再稼働への動きを強めています。この冬の豪雪や不祥事の連発も相まって、3.11 前の状況を思い出させられています。 

     私たちは、この10年の苦しみを誰にも繰り返させたくない、さらなる被害・被ばくを防ぎたいという願いを伝え続けます。 


    2020 年、初めて大熊町に一時帰宅

     終わりに、視察等で避難指示解除区域等に入る方には、放射能汚染に対して実行可能な最大限の防護と持ち出し防止を行なうことも、ご自身とすべての人々のためにお願いしたいと思います。

    (『福島の今とエネルギーの未来2021』)

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