福島からの声 – 菅野正寿さん(二本松在住、有機農家)

福島第一原発事故から9年たちました。事故による痛みや苦しみ、事故により失われたもの、事故により負わされたもの、それでも立ち上がろうとする人たち…。 ここでは、元酪農家で飯舘村に帰還した長谷川健一さん、二本松市で有機農業に取り組む菅野正寿さん、浪江町から関西に避難した菅野みずえさん、いったん避難し帰還した福島のお母さんの声をダイジェストでご紹介します。なお、インタビュー(10分程度の映像)は、FoE Japanのウェブサイトにて順次公開予定です。
1. 長谷川健一さん(飯舘村村民) 聞き手:武藤類子さん(三春町在住)
2. 菅野正寿さん(二本松在住、有機農家)
3. 菅野みずえさん(浪江町から関西へ避難) 聞き手:武藤類子さん(三春町在住)
4. 福島在住のお母さん

菅野正寿さん(二本松在住、有機農家)

菅野 正寿 (すげの・せいじ)さん
有機農業者。前・福島県有機農業ネットワーク代表。水田、トマト、野菜・雑穀、農産加工(餅、おこわ、弁当)、農家民宿による複合経営を行う

ここ福島県二本松市旧東和町は人口6千5百人の中山間地域の里山です。福島第一原子力発電所からは約48kmの位置にあります。千葉の市民クラブ生協、東京の消費者グループ、埼玉県飯能市の自由の森学園の学校給食など、いわゆる有機農業による産直、顔の見える交流をずっと、30年以上ここで続けてきました。産直交流を広めながら、地域の有機農業の仲間を増やしてきました。自由の森学園の学校給食に米・野菜を届けた関係で、原発事故前の12年間で高校生18人の農業体験を受け入れました。ジャガイモやトマトの収穫に汗を流していきました。マニキュア塗ってラジカセ聞いて、ばあちゃんの草履をはいて楽しそうに仕事をしたり、トンボやカエルに喜んだり、里山の良さを教えてもらいました。

3・11の時…

3月11日の地震の時、私の住宅の後ろの土蔵が崩れたので、今の民宿に改造したんです。3月15日に避難してきた浪江の人たちを、この東和地区は1,500人、二本松全体で3,000人を受け入れるということで、2週間、3週間は避難してきた人の支援に追われました。まさか、ここが原発の事故によって影響を受けるなんて思っていなかったので、本当にビックリしました。3月20日頃に出荷停止、ストップしてくれと指示がきました。春のほうれん草とか、いろんな野菜もあったのですが、全部ストップしました。そのときは一番苦しかったですよね。3月下旬。耕すな。農作業は控えろ。マスクをしなさい。ガソリンはない。わからないけれども、とにかく種籾は準備しておこうと。いつでもできるようにしておこうと。お米の種は、水に浸けておきました。

この二本松東和地域の土壌は5,000ベクレル以下だったので、耕していいよという指示が来たのが4月12日です。放射線測定器10個を道の駅のNPOに寄付すると言われて、4月の半ば過ぎから、自分たちで測り始めました。そんなことを聞きつけて、日本有機農業学会の新潟大学、茨城大学、東京農工大、福島大学の先生たちが、里山まるごと調べようじゃないか、水の調査も山の調査も総合的に、調査に取り組んできました。(土壌は)2,000~3,000ベクレル、あったんですけど、作物には移行しない。大根なんかも17ベクレル、トマトに至ってはND(検出限界以下)だった。これいけるんじゃないか、っていうことが見えてきた。私達は測りながら、作る。作りながら測る。

ただ、道の駅の売上は減る、実は学校給食もストップになる、コープなんかからは断られる、健康志向のお客さんも離れる。震災前あった売上が4割くらいガクッと下がったし、私もお米のお客さんとか、自由の森学園の給食も全部ストップしました。

農業者の被ばくの問題、特に有機農家の若い人、40代、30代の被ばくが一番心配でした。一週間、バッチを付けっぱなしにして、農作業していただいて。そういうこと全部データを取って、自分の行動と、健康への対策は取り組んできました。

電気・石油漬けの暮らしを転換

原発事故によって改めて、電気、石油漬けの暮らしを転換しなくてはならないと思った。トラクターは、天ぷら油のベジタブルオイルに切り替えました。それから屋根にはソーラーを上げる、民宿では薪ストーブを使う。3・11の前の暮らしの延長線ではダメじゃないかと痛烈に思ったのです。再生可能エネルギーをできるところからやろうと。それから、農業の果たす役割、価値というのを伝えなくてはいけないな、単なる検査済みの米です、とか、有機米ですというだけではなくて、里山の生物多様性のある農業を守る価値、里山の良さを丸ごと伝えるという取り組みを始めました。

原発はふるさとと人権を奪った

我々福島県民がもっと発信しなくちゃいけないです。二度とこういうことがあってはならない。山も川も土も汚した、生産者と消費者も分断する。じいちゃん、ばあちゃんと孫の食卓まで分断する。仲良くくらしていた隣近所もバラバラにした。そういうくらしを奪った原発はもうつくってはならない。再稼働してはならない。

避難してきた浪江町の方を受け入れたとき、その人たちは泣きながら話をしてくれました。もう帰れないと。原発はふるさとを奪ってしまった。

再生可能エネルギーにしましょう、私の暮らしも変えましょう、そういうメッセージと、政策をつくらないと、いつまで経っても原発の事故の教訓が活かされない。ましてや東京オリンピックなんかとんでもない。

大量生産大量消費の都市に持続可能なくらしはあるのだろうか。都市の一極集中に歯止めがかからず、地域が壊され、基地も原発もそのゴミまで地方に押し付けてきた構造こそが3・11の教訓ではなかったのかと思えてならない。

東北の農民は戦前、農民兵士として戦地に駆り出され、戦後は高度経済成長の下、ビルの建設現場や高速道路に新幹線の建設現場に出稼ぎ者として労働力を奪われてきた。首都圏の食料も東北からまかなっている。そして電気も福島からだった。この都市と農村の構造こそが3・11の教訓ではないかと。東京オリンピックに走る経済成長から脱却し、簡素で人間らしいくらしに転換するときではないでしょうか。

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菅野さんのインタビュー動画はこちら

(「福島の今とエネルギーの未来2020」)

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