福島からの声 – 福島在住のお母さん

福島の今とエネルギーの未来

福島第一原発事故から9年たちました。事故による痛みや苦しみ、事故により失われたもの、事故により負わされたもの、それでも立ち上がろうとする人たち…。 ここでは、元酪農家で飯舘村に帰還した長谷川健一さん、二本松市で有機農業に取り組む菅野正寿さん、浪江町から関西に避難した菅野みずえさん、いったん避難し帰還した福島のお母さんの声をダイジェストでご紹介します。なお、インタビュー(10分程度の映像)は、FoE Japanのウェブサイトにて順次公開中です。
1. 長谷川健一さん(飯舘村村民) 聞き手:武藤類子さん(三春町在住)
2. 菅野正寿さん(二本松在住、有機農家)
3. 菅野みずえさん(浪江町から関西へ避難) 聞き手:武藤類子さん(三春町在住)
4. 福島在住のお母さん

福島在住のお母さん

FoE Japanが行っている保養プロジェクト「福島ぽかぽかプロジェクト」に参加している、子どもを連れていったん避難し、帰還したあるお母さんのお話です。

あの日、2011年3月11日は2歳の子どもがいて、お腹に妊娠8ヶ月の子がいて、家も建てたばっかりでした。すごい地震に、「これはただ事じゃない。今までにないゆれだったので、何かが起こる」と思っていました。鳥が飛んで逃げて、何十羽も空を渡っていくのをみて、そのあと、雪が降るはずじゃない気候だったのに、大きい雪がぼたぼたと降ってきて、異様な映画のワンシーンみたいに。電気も2日くらい止まっていたから何が起きているのかさっぱり分かっていなくて、のちのち原発が爆発したようだって知って。現地にいる人よりも、周りにいる人のほうが知っていました。

13日くらいには原発事故の情報がインターネット等から流れてきました。14日くらいに新潟にいる父の知り合いが宿を取ってくれて、「娘さん連れて避難してくれば」って。ただお腹も大きかったし、2歳の手のかかる子を連れて行くのはとてもじゃないけど無理と思ったのですけれど、何となくこわくて、15日の一番線量が高い日に夕方車で新潟の方に避難しました。

出産後まもなく西日本に避難

6月の頭に息子を無事出産したのですけど、喜びに浸る間もなく、次はどこに避難しようってことばっかり考えていました。思い切って、食べ物も何も心配しなくていい西日本に決めました。

行った先は全く知り合いも親戚もいない場所で、受入れ体制がとても良くてそこに決めたのですけど、古い国家公務員用の宿舎で、もう閉鎖する場所を無理矢理開けてくれて、使える部屋だけを最低限補修し提供して下さいました。狭くて古い40年以上前の建物なので。水道から出る水も茶色いし、天井なんかも少し剥がれている状態だったのですけど、放射能が無いだけ良いと思って、3人で住み始めたのですけど、本当にアウェイ感が強くて。

毎日毎日悩んで・・・

1年くらい主人とも離れていたのですけど、「やっぱりまだ帰れないよね」って感じで主人が仕事を辞めて、早々に家も売って、関西のほうに来てくれました。ちょっとほっとしたのですけど。主人の仕事も違う土地で一から始めたので、すごく大変で、3,4回仕事を辞めることになってしまって、安定もしないし、お金もドンドンドンドン無くなっていくし、ちょっとやっていけないなぁと思って、3年くらい頑張ったのですけど、もう帰ることにしようかという気になってきて、それでも毎日毎日悩んで、答えは結局出なかったのですけれど、帰るしかないような状況になってしまって、避難から5年位で福島に戻りました。

「避難した人も大変だったのね」って言われるとストンと落ちた

避難させてあげられなかった自分を責めたり、避難した人達はいいよねという話を聞くこともありました。家族で身体の悪い人がいたり、仕事辞められなかったり、家があったりで避難できなかった人もいます。避難することで誰でも、今まで培ってきたものをすべて捨てることになります。だから避難できなかったことを責めることは誰にもできないと思います。でも今も避難したり、移住している人には少し羨ましいと思うようになりました。

私の話したことを聞いて、「避難した人も大変だったのね」って言われるとストンと落ちて、同じ言葉をかけてあげたいと思います。自らの行動を責め合うのじゃなくて、認め合っていきたいなと思うようになりました。私達は1人ではないということ。受入れてくれる方達が、すごく気にかけてくれて、「掴んだ手を離さない」という言葉がすごく身にしみました。空気は選べないけど、せめて自分で選べるものは選ぼうと思っています。添加物や農薬などのリスクを減らすことは震災前から行っています。

(「福島の今とエネルギーの未来2020」)

タイトルとURLをコピーしました