東電福島第一原発事故を振り返る

福島の今とエネルギーの未来

2011 年 3 月 11 日に発生した東日本大震災とそれに続く東電福島第一原発事故から 11 年が経過した。しかし、まだ事故は継続している。原発事故の被害は多岐にわたり複雑だ。広範囲にわたる放射能汚染により、自然のめぐみとともにあった人々の暮らしは失われた。原発事故は多くのものを奪った。生業、生きがい、山菜やきのこを採取する楽しみ、隣人や友人と過ごすかけがえのない時間、平穏な日常…。家族やコミュニティの分断、健康や人生に対する不安が生じた。

一方で、「復興」のかけ声のもとに、放射能汚染の実態や、健康被害や不安を口にだせない空気が醸成されている。避難指示はどんどん解除され、また、避難者向けの住宅提供などの支援も打ち切られた。しかし、福島第一原発周辺の地域で帰還が進んだわけではなく(p.5)、かつてのコミュニティは失われ、様変わりしてしまった。

事故の進展と避難指示

2011 年 3 月 11 日、東日本大震災とそれに続く津波により、福島第一原発はすべての電源を失い、炉心を冷却することができなくなった。当時、1 ~ 3 号機は通常運転中、4 ~ 6 号機 は定期点検のため停止していた。1 ~ 3 号機は地震発生直後に緊急停止することはできたが、その後、冷却機能を失い、炉内の温度が上昇。炉心溶融(メルトダウン)に至った。

しかし、高い放射線量に阻まれ、現在に至るまで原子炉内の調査が行われておらず、正確な事故原因や事故の進展のプロセスは解明されていない。

3 月 11 日の夜、20 時 50 分に 1 号機の半径3km の住民に避難命令が出された。3 月 12 日15 時 36 分には 1 号機建屋が水素爆発。同日の18 時 25 分、20km 圏内の住民に対して避難指示が出された。14 日 11 時 1 分には 3 号機建屋が水素爆発。15 日には 2 号機の格納容器が破損、また 16 日 6 時には 4 号機が水素爆発を起こした。

放射性物質を大量に含んだ放射性雲(プルーム)が東日本の広い範囲に流れた。プルームは福島県飯舘村や伊達市、福島市、郡山市の上空を通過し、雨や雪により降下した放射性物質が土に沈着。長く続く汚染をもたらした。

4 月 22 日、政府は、20km 圏内を「警戒区域」に、おおよそ 30km 圏内を「緊急時避難準備区域」に、飯舘村、川俣町の一部、南相馬市の一部、葛尾村など年間 20mSv(ミリシーベルト)に達する可能性のある地域を「計画的避難区域」に指定した。

「年 20mSv」基準 

20 ミリシーベルト基準の撤回を求める市民たち

3 月下旬から 4 月上旬には、福島市の父母たちが線量計を使って学校の測定を行い、大半の学校の校庭が放射線管理区域以上の値を示していることを明らかにした。放射線管理区域とは、原発や病院の施設・研究所など、訓練された職業人しか立ち入りが許されない区域である。 父母らは始業式を遅らせることを要求した が、これは聞き入れられず始業式が実施された。その後、文部科学省から各教育委員会に、学校の利用目安として年 20mSv を用いることが通知された。

年 20mSv は、公衆の被ばく限度として国際的に勧告されている年 1mSv の 20 倍であり、また放射線管理区域の基準年 5mSv をもはるかに上回る。そのため、批判の声が高まった。 5 月 23 日、怒った福島の父母たちや市民ら が文部科学省を取り囲み、年 20mSv 基準の撤回を迫った。メディアがこれを報道し、批判的な世論が高まった結果、文部科学省は、「長期的には年 1mSv を目指す」と通知を出した。

「避難の権利」確立を求めて

子どもや家族を守るため、賠償も支援もなく避難を決断した区域外避難者は少なくない。一方で、経済的事情、仕事、家族の事情のため、避難したくても避難できない人もいた。

下記は当時、FoE Japan が集めた自主避難者の人たちの声の一部である。

小さな山を一つ越えると、避難区域です。 そんな場所に小さい子どもを住ませることはできません。親として子どもを守るのは当然です。避難したくて、避難して いるわけではありません。どれほど悩んで避難したか。また災害が起こる可能性、 何かあった時子どもを守れるかどうかなど、本当に悩みぬき避難しました。 

どうか私たち「自主避難者」と呼ばれる者が、断腸の思いで選んだやり方を、愛する人たちを守る正当な方法であることを理解して下さい。私たちは福島を捨てたのではありません。守るべき人を守りたいだけです。

  避難者を援護する世論の高まりを背景にして、賠償方針を検討する政府の審議会(原子力損害賠償審査会)においても「自主的避難者」に対する賠償の議論が始まった。2011 年12 月、区域外避難者の「避難の合理性」が認められ、きわめて限定的かつ一時的・少額ではあったが、「自主的避難等対象地域」に居住する人、避難した人双方に対する賠償が実現した。

原子力災害に対応した被害者救済法の必要性

2012 年、「原発事故子ども・被災者支援法」が全国会議員の賛成のもとに成立した。同法は「放射性物質による放射線が人の健康に及ぼす危険について科学的に十分解明されていない」(第一条)こと、国の「これまで原子力政策を推進してきたことに伴う社会的な責任」(第三条)について明記した。これを踏まえ、「居住」「避難」「帰還」の選択を被災者が自らの意思で行うことができるよう、医療、移動、移動先における住宅の確保、就業、保養などを国が支援するとした。「放射線量が年 20mSv を下回っているが一定の基準以上である地域」を「支援対象地域」とした(第八条第一項)。同法は議員立法により制定され、立案の段階では、チェルノブイリ法(p.44 参照)を参考にしたという。しかし、同法を実施するための基本方針策定 の段階で、被災者の意見は反映されず、「支援対象地域」は福島県内の中通り、浜通りに限定された。また、同法に基づく被災者支援はわずかなものにとどまり、実質的には骨抜きにされてしまった。

現状では、将来起こるかもしれない原子力災害に対応した、被害者救済のための包括的な法律は存在しない。ふたたび原子力災害が生じれば、同じことが繰り返され、被害者が泣き寝入りすることになってしまう。放射性物質による被ばくや汚染を「被害」として認め、事業者の賠償責任を位置づけ、避難を選択した人、居住を選択した人双方の権利が守られるよう、国は被害者を救済する責任を負うことを法制化するべきではないか。

(「福島の今とエネルギーの未来2022」)

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