解除と安全は別 消えた街並み 旧帰還困難区域の現実

    福島の今とエネルギーの未来

    東京新聞編集委員 山川剛史

    放射線量が高いため居住はもちろん、立ち入りも制限されてきた帰還困難区域をめぐっては、2022年6月に葛尾村野行地区と大熊町のJR常磐線大野駅周辺、8月末には双葉町の双葉駅周辺のいわゆる復興拠点で避難指示が解除されました。23年には、飯舘村長泥地区、浪江町の津島、室原、末森の3地区、富岡町夜の森地区の復興拠点も解除されます。

    双葉町の状況(上空から、2023年1月筆者撮影)

    国も自治体も「復興を進める足掛かり」と強調しますが、現実は大変厳しい状況です。まずどれくらいの避難住民が帰ってきたのかという点ですが、p.5の表の通り葛尾村旧復興拠点の野行地区は1人。双葉、大熊両町とも「少なすぎ、限りなく個人の特定につながりかねないため公表できない」としか答えない状況です。解除前、試しに宿泊する「準備宿泊」では各10人強が登録していたことや、現地を回った感触からすると、数人程度と思われます。

    図 帰還困難区域の解除状況

    双葉、大熊の現在(今年1月)の写真をご覧いただくと分かりますが、もはやかつての街並みはほとんど残っていません。徹底的に解体され、かろうじて残っている道路標識や電柱の位置を基準にして以前の写真と見比べない限り、一体ここがどこなのか言い当てるのは難しい状況です。工事関係者と話していると、「先だってお墓参りに来た元の住民が迷子になっていた」そうです。

    自宅の解体直前、久々に双葉町を訪れた女性が私に電話をくれ、「いつか帰りたいと思っていたけど、もう私の町ではなくなっていた。今後、たぶん関わることはないと思う」と涙をこらえて話しました。

    双葉駅前は家屋や工場が壊され、しゃれた復興住宅が急ピッチで建てられつつあります。そんな様子が、彼女に取り残され感をより強く抱かせたようです。

    ふるさとに帰って住んでもいい、という選択肢ができたこと自体は、むしろ遅きに失したくらいだと思います。ただ、現場を測定して歩くと、「原発事故発生から12年、莫大な税金を投入して除染し、街並みを破壊してこの程度かよ」と毒づきたくなるほど放射能汚染が残っていると分かります。

    大熊町大野駅周辺(2023年1月、筆者撮影)

    特に大野駅周辺の除染は相当に苦労したと聞きます。場所によっては放射線量がなかなか下がらず、土壌や舗装を何度もはぎ取り、山砂を敷いてようやく国の線量基準(毎時3.8マイクロシーベルト(μSv)をクリアしたといいます。かけた労力は分かりますが、駅近くの商店街があった辺りは路上でも普通に毎時0.6μSvあります。植栽や路肩の吹きだまりになりやすい場所、泥上げした所などでは、線量が急上昇する地点が点在しています。土壌を調べると、厳格な分別が求められる放射性廃棄物の基準(8,000ベクレル(Bq)/kg)の十数倍に当たる10万Bq/kgを軽く超える放射性セシウムが検出されました。こんなものが町のあちこちに普通に放置されているのか⸺。事故後、きちんと手法を学び、自ら測定して根拠ある報道をする努力をしてきた一人ですが、金づちで頭を殴られたような衝撃でした。

    大熊町の大野駅近く商店街の変貌ぶり(筆者撮影)

    双葉町は、大熊町よりは相対的に汚染度合いは低いですが、高台の住宅地では普通に毎時1μSvを超え、背後の山林は面的に毎時3μSvを優に超えている状況でした。土壌も軒並み10万Bq超えでした。この住宅地には帰還された方々がおり、追加の対策が行政の責務だと思いますが、町の幹部に現状を伝えても反応は芳しくありません。

    思い返せば、2015年に楢葉町の避難指示が解除されたころと比べると、放射能に対する考え方が緩くなりすぎていると思います。2015年当時は、2年で放射能が半分になる放射性セシウム134がかなり残っており、解除後も線量はかなりのペースで下がっていきました。しかし、事故12年後の現在は、30年でやっと半分になるセシウム137が放射線源のほとんどを占めます。つまり、追加除染など人為的に手を加えない限り、放射線量が早期に減ることは期待できないわけです。

    今年、新たに避難指示を解除しようという飯舘村長泥地区や浪江町津島地区なども程度の差こそあれ、状況は似たり寄ったりです。帰るつもりで宿泊している人はほんの一握りです。手つかずの汚染された山に囲まれた両地区とも、広大な帰還困難区域にぽっかり開いた解除予定の地。汚染もさることながら、若い層は避難先で新たな生活基盤をつくった人が多く、なかなか帰ってくることはありません。

    「もう家は解体してしまった。新築するといっても、継ぐ者がいないからな」

    (※2023年1月現在)

    長泥地区に通いで戻る人たちからは、異口同音にこんな声が聞かれました。

    街中と違い、農村部では沿道の草刈りなど大切な共同作業がたくさんあります。避難指示が解除され、何人かは戻ってくると思いますが、わずかな人数の高齢者で、果たして地域が維持できるのでしょうか?

    復興を願い、応援もしていますが、放射能汚染やあまりにも変わった地域⸺。残された課題が多すぎ、正直なところ、私には復興した被災地の姿がまだイメージできません。

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