終わらぬ核被害の本質を見つめる
    ――インタビュー:武藤類子さん

    福島の今とエネルギーの未来
    武藤類子さん
    1953年、福島県生まれ。福島県三春町在住。養護学校教員などを経て、2003年、里山喫茶「燦(きらら)」を開店するも、福島原発事故で閉店。2012年「福島原発告訴団」を設立し、東京電力の責任を問う活動を続けている。原発事故被害者団体連絡会(ひだんれん)代表。

    「こういう生活もあるよ」里山喫茶で提案

    ――「燦(きらら)」を始めた理由は?

    里山喫茶「燦(きらら)」

    私は 1986 年のチェルノブイリ原発事故で初めて原発の危険性に気が付いたんです。それで、原発の反対運動に参加したのですが、事故やトラブルがしょっちゅう起きているんだけれども、なかなか原発はなくならない。その時に思ったのはやっぱり一人一人が自分の暮らしを省みて、エネルギーの問題というものについて考えないといけないのかなと思って。たとえば、電気も自分で自給ができないだろうか。それから薪などのエネルギーを使って暮らすことができないだろうか。食べ物もなるべく自分で山から採取したり畑で作ったりとか、「こういう生活の仕方もあるよ」という提案をしたいと思って始めた店でした。

    どんぐりは里山のめぐみの一つ

    ――「燦」を何年くらい?

    7年ですね。原発事故が起きてすぐに休業したんですけれども、再開はできないなと思ったんですね。近所の森の中から山菜やキノコとか野草、ドングリなどを取ってきて料理してお店に出したりしてたので。原発事故のあとの放射能汚染の状況ではできないと判断しました。

    ――以前は薪ストーブを使っていた ?

    今はほとんど使っていない薪ストーブの前で

    はい。ここは山の中の暮らしなので、間伐材などを薪にして、薪ストーブを使っていたんですね。なるべく化石燃料や電気を使わないような暮らしをしていたので、冬の薪ストーブはものすごく重宝したんです。暖かいし、料理をすることもできるので、とても便利でした。でも、原発事故の後に薪、木が汚染されてしまったのでずっと焚けなかったんですね。灰を測った時にかなり高い放射性物質濃度の値が出ました。今年のお正月に、とても寒かったものだから、事故の前から保管していた「とっておきの薪」を使って焚いてみたんですね。そうしたらものすごく暖かくて、やっぱり薪ストーブがいいなと、焚けなくなったことが本当に悔しいなと思いました。

    3.11 前からトラブル続きだった原発

    ――2011 年の事故の前は、原発は安全に動いていたんですか。

    プルトニウムの混じった MOX 燃料を使うことに反対する福島の市民たち

    いえ、いろいろな事故やトラブルがあり、そのデータや事故の隠蔽などが数えきれないほどありました。たとえば、1989 年に、福島第二原発の3号機で再循環ポンプ破断という大きな事故がありました。原子炉の中に入った金属片を全部回収する前に再稼働することになって、それに対する反対運動をしました。その後 2001 年に既存の原発で、プルトニウムが含まれた MOX 燃料を使用する「プルサーマル運転計画」が、持ち上がってきたんですね。当時の佐藤栄佐久知事が一旦受け入れたんです。しかし、その直後、東電のデータ改ざんと事故隠しが発覚し、白紙撤回となりました。

    2010 年には、福島第1原発の2号機で全電源喪失事故が起きました。なんとか大事故には至らなかったんですが、そのとき、冷却用の電源が落ちるとメルトダウン(原子炉中の燃料集合体が溶け落ちること)が起きるかもしれないことを初めて知りました。ちょうどその1年後の 2011 年に、それが現実のこととなってしまいました。

    「そのとき、メルトダウンについて初めて知りました。ちょうどその1年後に、それが現実のこととなってしまいました」

    「すべての電源が失われました」

    ――事故のときは、どこにいらっしゃいました?

    ここ(三春町)にいました。このお店にいたのですけれど今まで経験したことがないような揺れだったんですね。「原発は大丈夫かな」って思い、すぐにラジオをつけました。福島原発は、制御棒が入って一応止まったということをきいたので、「良かった」と思いました。何度も何度も大きな余震があって、そのうち夕方になったら、ラジオのニュースで「冷却用の電源が一部入らなくなりました」と流れ、その 15分ぐらい後、「全ての電源が失われました」と。

    「これは大変だ」とその時思いました。原発反対の運動をする中で、事故が起きたら避難するしかないということがわかっていたので、子どものいる友達のところを回って「避難した方がいいんじゃないか」と言い、二つの家族が避難していきました。夜になってから自分たちも車に毛布とか炊いたご飯とかいろいろ詰めて、家族 3 人と犬とで避難をしました。

    その日、猪苗代で夜を過ごしました。吹雪で物凄く寒かったです。翌朝、会津若松市に入って、避難所を見つけたんですよね。そこでおにぎりをもらってちょっと休んでいたのですが、いろんな人にまだ知らせていないっていうことが、頭の中でぐるぐるしてしまったんですね。電話もメールも全然通じなかったし、原発はまだ爆発してなかったので、「一旦戻ろうよ」って連れ合いに言ったら「何言ってんの、バカじゃない」って言われて、そこで喧嘩になったんだけど、戻ってきたんですよ。

    3 月 14 日まではここにいて、知り合いに連絡を取ったり、人が訪ねてきて相談を受けたりしました。やっぱり子どもがいる人には、「後から笑い話になってもいいから、遠くに行った方がいいんじゃない」って言いました。

    12 日には 1 号機が爆発して。14 日に 2010年に開始されたプルサーマル運転の 3 号機が爆発したんですよね。これはもう被害の規模がまったく違うんじゃないかと思い、もう一回避難しようということになり、今度は山形に行き、そこに 1 カ月避難していました。

    「『もう事故は終わった』という空気が作られている。そういうことを多額の税金を使ってやっているわけです。」

    11 年たって思うこと

    ――それから、11 年間がたとうとしていますね。

    原発事故から 10 年を機に、すごく変わってきたところがあると思います。例えば原発事故の避難者に対して、まだ本当に家に帰ることができない人たちの仮設住宅は全部取り壊すということになっていく。提供された住宅から様々な理由で出ることができない避難者達を行政が裁判に訴えるということも起こっています。避難者を切り捨てるばかりか攻撃すらしてくる。報道も事故の被害ではなく、いかに復興しているかという報道ばかりがめだち、「復興」のみに舵を切っていると思います。

    それから、原発事故によって外にでてしまった放射性物質の再拡散が始まっていると感じてるんですね。

    例えば汚染水。せっかくタンクにためていたものを海に流すとか、除染をして、フレコンバッグの中にためた汚染土を「再生資材」と名前を変えて「再利用する」という形で拡散していく。それから、福島でたくさん作られている木質 バイオマス発電ですね。それも森林除染を兼ねるって言ってるわけですよね。汚染された木を燃やして発電をすることによって放射性物質を環境中に拡散することになります。そこでできた灰をですね、再利用して路盤材にしたりとか、そんなことでまた再拡散されていくって感じがするんですよね。

    この 10 年の間にそういう方向に持っていくための準備が着々とされてきていたんじゃないかなと思います。

    つくられる復興の「空気感」

    宣伝によって福島の「空気感」みたいなものが醸成されてきたことを感じます。例えば、農林水産省、復興庁、環境省、原子力規制委員会、福島県などが、広告代理店に様々な事業を発注して、少しずつ少しずつ、もう原発事故は終わって、復興がうまくいっていて、「さあ、みんな新しい方向に向かっていきましょう」という空気を上手に作ってきたんじゃないかなと感じています。原発とか放射能に関して、住民の人たちは事故があったから、もちろん不安も感じているし、怒りも感じているけれども、「もう事故は終わった」という空気が作られていく中で、それを口に出すこともしにくくなっている。そういうことを多額の税金を使ってやっているわけです。

    つい最近見たのは、東日本大震災原子力伝承館の庭で、大学生、都内の高校生、社会人を集めて、芝生の上でヨガをやって、そこで食事をする、夜は星空観察という企画です。それはどこの会社が受注したかは、わからないんだけれども、そういう企画をいっぱいやるんですよ。でも伝承館の庭って、原発の煙突が見えるく らい近いところです。事故がまだ収まっていない原発から 4 キロのところです。そういう場所に若者を呼んでそういう企画をする。そうやって安全性を宣伝したり、若い人たちに福島って、行けば面白そうだって思ってほしいという意図なんですね。

    たとえば、広告代理店の電通は、そういう事業をたくさん請け負っています。電通は、事故前は原発の宣伝をやっていました。原発の安全を宣伝してきた企業が、今度は、放射能の安全を宣伝して利益を得る。それは原子力勢力っていうか、原子力によって利益を得てきた企業がもう 1 回、復権と支配をしようとしているのじゃないかなと思っているんです。

    身近な人たちが次々に他界

    ――健康被害については、どう思われますか。

    去年だけで、本当に身近な親しい友人を 5 人 立て続けに亡くしたんです。2 人は甲状腺がん、 1 人は白血病、1 人は脳出血、1 人が卵巣がんだったんですね。飯舘村の酪農家の長谷川健一さんも、昨年、甲状腺がんで亡くなりました。あっという間のことでした。

    みなさん 60 代です。その病気と原発事故との関連は、もちろん立証できないし何とも言えないけれども、「もしかしたら」と思ってしまいますよね。私だけじゃなくて浪江町の方に聞いたら、自分の同級生ももう何人も死んでるし、住んでいたところの通りで、三軒続けて亡くなってるってことを言ってらしたんですね。健康被害っていうのはすぐには出てこないけれども、今から厳しい時代になるかもしれないとは感じています。

    放射能に起因するものではありませんが、災害関連死も深刻です。福島の場合には災害関連死は 2020 年度までに 2,300 人以上。自死者も 118 人。復興住宅での孤独死も 155 人。東日本大震災の被災 3 県(岩手、宮城、福島)の中で一番多いですよね。

    甲状腺がんの患者たちが立ち上がった裁判の意味

    ――甲状腺がんに関しては、裁判も起こりましたね1

    原発事故前までは、小児甲状腺がんは 100万人に 1 人か 2 人と言われていました。福島県民健康調査で、「がん、がん疑い」が今 266人ですね。大人の甲状腺がんや他の病気に関しては、なかなか放射線影響との因果関係というものを立証するのは難しいかもしれないけれど、小児甲状腺がんに関してだけは県民健康調査の中で多発してることは明らかになっているわけです。これは原発事故との関連を考えざるを得ないんじゃないかと思います。

    今回、当時 6 歳から 16 歳だったという方々が成長されて、自ら原告になって裁判を起こすということで、それをしなければ、きちんとしたその事故との関連は立証できないという、そのこと自体も本当にひどいと思うんですね。被害者自身が裁判を起こさなければならないっていうことが。

    でも、その裁判を起こしてくれたことで、明らかになってくることはいくつもあるだろうし、彼らだけでなく多くの人達のために、大きな意味ある裁判になると思います。「被爆者援護法」のような、被ばくをした人達の健康被害を救済する法律などにつながっていけばいいなと思っています。

    甲状腺がんの患者たちが東電を訴えた(写真提供: OurPlanet-TV)

    福島の中で原発事故に対する不安とか、健康被害に対する恐れとかを口に出しにくい、そういう状況の中でこの裁判を起こすというのはすごく勇気がいることだと思います。その彼らに対しての攻撃というものもあるかもしれないけれども、やっぱりそれを同じ被害者である福島県民が守っていかなくてどうするって思いますね。

    「そういう状況の中でこの裁判を起こすのは

    すごく勇気がいることだと思います。」

    犠牲の上になりたつ発電方法

    ――類子さんが原発に反対する理由って何でしょうか?

    たくさんあるんですが、一番大きいのが、原発って一つの発電方法のはずなんだけれども、必ず、その過程で犠牲になる人がいるということですね。

    例えばウランの採掘で被ばくする人たちはいるし、原発で働く人たちというのは被ばくが前提なんですよね。被ばくする人がいない限り原発の運転はできない。そして、事故が起きれば、周辺に住んでいる住民たちが本当に人生をめちゃめちゃにされるような被害を受ける。十分な救済がされない。人権すら脅かされる。人の犠牲というものの上に成り立っているということですよね。それはとても差別的であるし、電気が作れるっていう「利益」と、比べてみてもあまりにも失うものの方が大きいと思います。あとは人類として。おそらく解決もできない 放射性物質を生み出してしまうってことですよね。生み出した放射性廃棄物に関しては、本当にどうするんだろうって。

    ――今、気候変動対策として原発を推進していこうという動きがありますね。

    福島の原発事故というものを経験して、この甚大な被害が、今も続いているにもかかわらず、なぜ原発というものにまた着手しようとしているのかが信じられないですよね。小型であろうが新型であろうが、核物質を使うものです。それが安全に制御できるというのは、やっぱり人間のおごりだとしか思えません。

    (聞き手:満田夏花、松本光)


    1  2022年1月27日、福島第一原発事故に伴う放射性物質の影響で甲状腺がんになったとして、事故当時福島県に住んでいた男女6人(事故当時6~16歳)が、東電を相手どり、裁判をおこした。

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