【寄稿】原発作業員の現実

福島の今とエネルギーの未来

ー片山夏子(東京新聞記者)

「GO!」 

 東京電力福島第一原発で、下請け作業員の男性は、鉛板20キロを背負い、合図とともに1号機原子炉建屋の急階段を、通常のビル6階の高さまで駆け上がった。2011 年夏、事故から4カ月余がたった頃だった。風を通さない防護服を2枚重ね、顔全体を覆う全面マスクの重装備。高線量で線量計が鳴りっぱなしで、全面マスクで息苦しい中「早く終われ、早く終われ」 と心の中で呟き続けた。 

 福島第一原発事故の取材を始めたのは、東日本大震災の翌日から。東京での国や東京電力の 記者会見が最初の取材だった。記者会見では、作業の進捗状況はわかるが、作業員の様子までは見えてこなかった。原子炉建屋が次々と水素爆発し、現場や周辺の放射線量が刻々と上がっていく中で、“爆心地” にいる作業員はどうし ているのか。次に爆発が起きたら、生きて帰れ るのか。どのくらい被ばくをしているのか。そ んなことを考えながら、記者会見を聞いていた。 実際に、作業員の人たちに会って取材をしたのは、5 カ月後の11年8月から。当時、作業員の宿泊先が集まっていた福島県いわき市で声を掛けた。 

 実際に聞いてみないと、分からないことだらけだった。事故直後、1日40万円で作業員を募集しているという報道もあったが、1日数万円をきちんともらっている人もいるものの、安い人だと1日8,000円や6,000円の人も。危険手当が付いているはずだったが、当時は「そんなの見たことない」という作業員も少なくなかった。 

「福島のために何かしたい」 「自分の技術が役に立つなら」 

 福島第一原発には、全国各地から作業員が集まっていた。そこで働く動機は様々だった。地方から来た作業員は、福島のために役に立ちたいと原発での仕事を自分で探した。彼は「死ぬかもしれない」と覚悟して、福島に来る前に故郷の思い出深い所を巡ってから来た。他にも「福島のために何かしたい」「自分の技術が役に立 つなら」とたくさんの作業員が県外から駆けつけた。地元作業員は「1日も早く故郷に戻りた い」「ここで家族と暮らすために働く」「福島に 住む自分たちが頑張るしかない」などと話した。事故前から原発で働くベテラン作業員は「原発で働いて来た責任がある。廃炉まで働きたい」 と固い表情で語った。 

 危険な場所に行かないでと、家族に泣いて止められた人も。逆に、息子に「パパ闘ってきて」と言われた地元作業員もいた。事故直後、上司に呼ばれたが、怖くて福島第一原発に来られなかった作業員もいた。現場まで来て、帰ってしまった人も。だがどの作業員も、決して逃げた人を責めなかった。「誰だって怖かった。逃げたい気持ちは分かる」。地元の下請け会社の社長はそう言った。 

過酷な現場で 
原発事故が起きた時、そこにいた人たちに何が起きたのか。1人1人の顔が見えるようにし たいと思った。作業員が1人称で語る形で連載「ふくしま作業員日誌」を始めたのは、初めて実際に作業員に会ってから1週間後だった。問題はこの頃すでに、作業員に対して取材を受けるなという箝口令が敷かれていたこと。取材は、作業員の宿泊先から離れた居酒屋の個室などで分からないようにし、記事にする時は、取材先が特定されないように細心の注意を払った。危険を顧みず命懸けで働く作業員から、仕事を奪うことだけはしてはいけないと思った。 

 作業は過酷だった。地方から来た作業員は、水素爆発で滅茶苦茶になった3号機を初めて見た時「怖くて震えた」と語った。全面マスクは、外から放射性物質が入ってくるのを防ぐため密閉する。汗が落ちてきて目に染みてもぬぐえない。次第にあごの部分に溜まり、口の中に入っ てくる。防護服といっても、放射性物質の付着は防ぐけれど、放射線を通すので被ばくする。 事故直後は、線量計も行き渡らない中で作業をしていた。 

 防護服に全面マスクでの作業で、夏は熱中症との闘いだった。作業を始めると、あっという間にバケツで水を被ったかのように全身汗まみれになる。溶接をする人はさらに上に防燃服を着るため、まさに “灼熱地獄” に。作業中は水も飲めず、熱中症で意識を失えば命に関わっ た。そんな中で具合が悪くなって作業を中断す れば、周りに迷惑がかかると、作業員はぎりぎりまで働いていた。 

 高線量下での作業は、さらに厳しかった。移動中も被ばくするため、現場までも全速力で走る。水素爆発した3号機の周りの囲いを造る作業では、移動時間を抜くと作業ができるのは実質5分程度。被ばくを低減するための15~17キロのタングステンベストを着て、壁を駆け上って、ボルトを一本か二本しめて戻り、次々人が入れ替わる人海戦術が行われていた。「ダッシュして、一つでも多くのボルトをしめようと必死だった」とある作業員は語った。 

爆発後の 3 号機原子炉建屋の外観 出典:東京電力ホールディングス

被ばく線量隠し 
 原発作業員は、通常時で被ばく線量の上限が 「1年で50ミリシーベルト」「5年で100ミリシーベルト」と定められている。これを超えると、他の原発でも働けなくなる。作業員たちはいつも、自分の残りの被ばく線量を数えるようにして働いていた。残りの被ばく線量がなくな れば現場を離れなくてはならない。大きな会社 であれば、他の現場に回すことができるが、小さな会社ではそれは難しく、解雇せざるを得ないことも。若い地元作業員は原発事故後、率先して高線量の場所で作業をした。「目の前の作業を何とかしなくてはと必死だった。被ばくを振り返る余裕はなかった」と後日振り返った。 だが被ばく線量が高くなったり会社が競争入札 で仕事を取れなかったりしたことから、会社を解雇されてしまう。 

 そんな状況下で、仕事を失うことを恐れた一部の作業員が、線量計の上に鉛カバーを掛けたり、線量計を現場に持っていかなかったりする被ばく線量隠しが起きた。 

「事故収束宣言」「アンダーコントロール」 しかし現場では… 

 2011年12月16日、当時の政府は「事故そのものは収束に至った」と事故収束宣言を出す。 溶けた核燃料(デブリ)は毎日大量の汚染水を生みながら、ようやく冷却され、放射性物質の拡散も止まっていない状態。高線量の原子炉建屋は人が入れるような状態になっておらず、デブリの取り出しは全く目処がついていなかった。作業員からは「言っている意味が分からない」「安定とは程遠い」「事故収束なんてありえない」などと電話が掛かってきた。そして、この宣言を境に現場は「通常になった」とされ、 危険手当や日当が下がったり、宿泊代が出なくなったりするなど労働環境が悪化していく。被ばく線量が上限に近づき技術者やベテランが去り、作業が長時間化し、現場作業員の疲労や被ばく線量が増えるという悪循環も起き た。そして、事故当初、突貫工事で造った施設や溶接をしていないタンクが悲鳴を上げ始める。2013 年にタンクからの大量の汚染水漏れがあって間もなく、東京五輪招致で「(汚染水の影響は)アンダーコントロール」と当時の首相が世界に宣言。現場は、汚染水処理やタンクパトロール、汚染水を減らすための工事などでとにかく急げ、急げと急がされていた。その状況下で、被ばくする現場で許される 10 時間を超える長時間労働が起こる。中には、トイレにも行かせてもらえないという現場もあった。

 「工期に間に合わせなければならない。とに かく急げと言われ、みんな疲労している。人手不足で休みも少ない。けがも増えているし、建設ではやってはいけない上下作業も、現場によっては行われている。これではいつか大きな事故が起きる」というベテラン作業員の懸念は現実になっていく。それは、14~15年にかけ ての死傷事故多発につながっていった。高線量下の作業でのロボットなどの遠隔操作でも、必ず人の手が必要になる。原子炉建屋内の格納容器内の調査をするにも、ロボットを挿入するための貫通孔を開けたり、ロボットをその入り口まで持っていったりするのは作業員。そこにロボットが持って行けるように、現場を鉛板で囲むなどして線量を下げるのも、作業員がするしかなかった。溶接をしていないタンク の解体作業でも、最後に汚染水を処理した水を抜くのは、機械では取り切れず、防護服にかっぱ、さらにウェットスーツのような全身を包む ゴムのつなぎを着て、作業員がタンクの中に入って手作業で集めなければならなかった。重装備のため、動くだけでも大変な上、暗いタンクの中での作業で、とても長時間はできなかった。

 「どんな作業でも必ず最後は人の手が必要になる」と説明してくれた地元のベテラン作業員の言葉を取材の中で何度も思い返した。 ただ、厳しい現場で働く中でも、作業員たちは明るかった。仲間にいたずらをしたり、恋をしたり、日常生活の中には笑いがたくさんあっ た。故郷を愛し、家族を思い、仕事がどうなるか将来を心配したり、悩んだりしながらも、日々楽しい話を聞かせてくれた。過酷な作業だけでなく、そんな生き生きした姿を伝えたいと思った。 

目途のたたない廃炉 
 事故から10年がたつ。事故直後に最大の問題だった核燃料の冷却は安定し、日々生じる汚染水の量も減った。敷地全体の放射線量は事故直後に比べて格段に下がった。一方で、核燃料取り出しに向け、重装備での高線量下の作業が続く。溜まり続けるタンクに保管した汚染水を処理した水の処分方法など課題も多い。2021年中に2号機から始まる予定だったデブリの取り出し作業は、新型コロナ感染拡大の影響を受け、昨年末延期が発表された。最も調査が進む2号機でも、デブリの一部が確認されただけで、 その全容は分かっていない。1~3号機のデブ リは推計約880トンとも言われ、取り出せたとしてもその保管先が問題になる。廃炉の目処は今もたたない。 

 そして今も、原発作業員ががんなどの病気になっても、労災以外の補償は何もない。燃料取り出しに向け、高線量下の作業が増える中、作業員の被ばく線量上限との闘いは厳しくなって おり、作業員が福島第一原発で安定して働き続けることを難しくしている。それでも「福島の ために」「イチエフ(福島第一原発)の作業に 関わり続けたい」という作業員たちによって、 現場の作業は支えられている。 

すでに世代交代も始まっている。この先何十年後になるか、終わりの見えない廃炉作業を考え、今ここで作業員の補償の見直しや、安心して働き続ける雇用条件を整えなければ、廃炉はままならない。

(『福島の今とエネルギーの未来2021』)

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